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学問と自分のハザマ

いつかまたパレスチナに行きたい。
今でもそう思っている。

初めて行ったのは2001年。2ヶ月の中東旅行の中のほんの1週間だけ。パレスチナ関係ではかなり有名なあるジャーナリストの方に拾われ(その時は知らなかった・・・)、一人で漠然とした目的しかない自分の滞在を有意義にしてもらえたのを覚えている。
2回目はその翌年。またまた色んな人に出会って刺激された。そしてそこで見た現実は前回以上に受け入れ難く、納得がいかなかった。でも同時に「もしもここにもっと長くいることが出来たら残るか?」という問いに、心は大きな声で「NO」と言った。
傷ついた。当事者でもないのに。体でなくて心が。自分が何かを代表して物をいえる立場であるとは全く思わないけど、強いて言うならば人として耐えがたかった。今の自分は未だにこの自分を傷つけたものとの戦っていると感じる。ほぼ逃げ出す感じで次の渡航先へ向かった。でも必ずまた来よう、そして次に来る時は何かをするために来ようと誓った。
そして3回目。大学卒業後8ヶ月。半分をイスラエルで半分をパレスチナで過ごした。普通、このくらい長くいると何かいいことの1つや2つ言えるらしい。でもおそらく2回目の訪問の後よりも確かに言えることが無くなった。双方合わせて何百万の人が住む社会のうねりなど、考えてみればたやすく理解できるわけも無い。
この時はボランティアをした。何かできると思ってた。でも現実の壁は厚く、ただひたすらに自己嫌悪の日々が続いた。この時からどうすればもっと実践的に人々の声は相手に届くのかを考えている。

2年の協力隊を経て今はコスタリカ。随分と離れてしまったように感じる。でも今は我慢の時。自分はまだあの地域に貢献できるほどの力が無い。まだまだ最低踏まなければいけないステップがいくつかある。

こんなことを今日ぼーっと考えたのは授業のせいだと思われる。Marshall Rosenbergという人のNon-violent communicationについてのプレゼンだった。
理念は理解できた。賛成もする。実践できればそれ相当の効果もあるだろう。そう、実践できれば。
最近、授業の中ですぐに意識が飛ぶ。別に寝ているとかではなくて、どうすれば習っているものを実際自分が体験してきたものに当てはめられるのだろうかを無意識的に考えはじめている。そのおかげでいつの間にか話の流れに置いてけぼりを食らうこともしばしば・・・
でも考えずにはいられない。学問に現実への答えなんて滅多に無いと思っていても、もしかしたらもしかしたらと思うのだ。常に頭の中を飛び回っているのは『feasibility(実行できる可能性)』という言葉。今回のNon-violent communicationも『対話が出来ること』が前提の話。罵声を浴びせるだけでもいい。それでも少なくとも相手はそこにいる。

でも例えば、である。軍が占領地の各都市でチェックポイントを設けている。そのチェックポイントでは被占領地の人々が理不尽な差別を受け、明らかな人権侵害を受けている。しかし彼らが声を上げればそれだけで逮捕され期間の分からない拘留の可能性が大いになる。人権を守る機関があってもその人権侵害を受けている人たちはその時にその機関へコンタクトを取るすべを奪われている。なので逮捕される心配の少ない外国人がその代わりをしようとそのチャックポイントへ行く。しかし、兵士はその外国人を見るや否やチェックポイントを閉め、銃を構え、空中へ威嚇射撃。さらにそれまで列に並んでいた人たちを追い払い都市へ出入りを不可能とする。まるでその外国人への『見せしめ』のように。『お前たちが口出ししようとするとこうしてやる』というメッセージ。その外国人の『存在』が既に兵士たちへの『挑発』。誰も文句は言わないけれど明らかなのはそこにいるだけでその外国人は状況を悪化させたということだけ。いないほうがいい。でも、それではそのチェックポイント人権を侵されている人々はどうなるのか?

この状況の何処にコミュニケーションの可能性を見出せばいいのかが皆目見当がつかない。アプローチする場所とタイミングと対象を変えられる、とは思う。だからまずは学校で相手とのコミュニケーションを促進してみるとしよう。でも子どもが何か新しいものを持って帰って実践をするには親の理解が必要。それじゃ次は大人。でも世代や性別によって一様じゃないだろうから彼らの中でのコミュニケーションも促進しなければ。そして政治レベルも重要だ。でも同じグループの中でさえ政治と人の間には大きな隔たりがあるのがつき物だからまずそこのコミュニケーションを促進しなきゃ。そんなことが達成されてやっと対立する相手とのコミュニケーションの場というのが出来上がるのだろうか?そうすれば出来るのだろうか?例えばイスラエルとパレスチナにある何百万の『ニーズ』にはどうやって対応できるのか?

ピンと来ないのだ。ピンとね。そんな学問と自分の間のフラストレーションの上で右往左往しているのも疲れてきた。意味を見い出したい自分と意味を見い出せない自分。ホント・・・疲れてしまいます・・・
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コメント

to みや ・ aya様

to みや
コメントありがとう。でもいいじゃない、みやちゃんは少なくとも英語出来るから。子育てと学習を両立するための通信。タフだと思うよ。えらいです。パレスチナ、またばったりというのもおもしろいね。ナブルスでばったりあったときのことは忘れられないわ。アラビア語は教えられるほどは・・・一緒に勉強しましょう。

to aya様
勇気付けをありがとう。その現場に当てはめる作業が授業外で出来れば完璧なんだけどね。。。でも言うとおりだ。この作業をすることが意義であることは間違いない。しかし俺はそんな壮大な理論なんぞ1ミリも展開できてませんのであしからず。授業の英語からの逃避か!?と思わせるほどに。
さすがフランスにいるだけあって哲学の重要性をポイントアウトしてきたな~。ってのはまぁ冗談で、俺も最近この重要性には最近気が付いている(気が付かされている)よ。先人たちが経験して展開したものを学べば少なくとも同じ失敗は出来るだけ回避できるだろうし。
分かってないことの多さ、出来ないことの多さ、考えてみれば当たり前なのに直面すると確かにショックだ。でもすでにそれがエゴなのかもな。

頑張るってものすごい有用な言葉だ。そうだ!頑張ろう!!お互いに。

卒業後、フィールドではなく机をまず選んだわたくしと同じ種の苦しみに悩まされているようね。授業中に意識が飛ぶのは、わたくしの経験上、社会経験積みの高齢学生に多いつまりフィールドでの経験をリアルに回顧しつつ目の前で述べられてるコンセプトやテーゼに照らし合わせる「余裕」がある人だね。(じーさんとか、寝てんのか?!って思いきや、実は壮大な理論を展開してるんだよ)
確かに意識飛んじゃうと授業を落としそうになったりするけども、果たしてこういった作業なしに、我々のような現場経験者が机に戻る意味はあるだろうか?

まあ、「今が辛抱の時」って、分かってる君にわたくしが言うことではないけれど。結局、丸々適用するには理想論すぎても、それでもフィールドに必要なのって情熱や行動は当たり前で、その前にそれぞれの哲学だと思う。そうじゃないと人は容易にエゴやコンプレックスを他者に転化する生物だし、よかれと思ってやってるつもりが新たな暴力を創出することになってしまう、無意識にね。
まあ、これも君が言ってることと同じだね。

考えれば考えるほど遠い道のりだと思われるし、訪れれば訪れただけ距離は広がる。分かってない自分に気付く。できないことの多さに気付く。

でもまあ、頑張ろうじゃんか。

その実践にはほとんど役に立たない学問を、さらに役にたたなそうな言語、日本語で学び、さらに困ったことに通信制という名の自習システムについつい怠けがちなわたくしです。はろー。ということで、松本くんのがずっと有意義そうだ☆うちもいつかまたパレスチナに行くのが夢よ。次は、もうこんな無力感からはおさらばしたい!(いつまでもあるものかもだけど)と思ってるらよ。同世代だし、一緒に何かできるといいね。そんときゃ燕と私にアラビア語教えてね~♪

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